An Argument for Atheism, Fresh Air

http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=87949769

God Delusionのペーパーバック版の出版にあわせてのRichard Dawkinsへのインタビューの再放送。そういえばハードカバー版が出版されたときにこのインタビューを聞いてハードカバーを買ったけれど、まだ読んでいない。

進化論を巡る宗教と科学の対立の話題に興味を引かれるのは、自分の育った日本で、古事記や日本書紀の記述をたてにして進化論を教えることに反対し、教育現場への介入が行われるなんてことはあり得なかったからだろう。
大半の価値観を共有しているように見えた、というか自分の育った現代日本がその価値観を輸入したアメリカで、宗教がまだ大きな力を持ち、進化論が聖書の記述と整合しないからと、進化論が教育現場で教えられることに反対する人々がかなりの数いるということが、自分にとってはおもしろい。

自分は無神論者だけれども、自分が神という概念を好きになれないのは、神という絶対を設定することによって、思考や検証がそこで止まってしまうからだ。神様のされたことだからと絶対の意味を与え、それ以上の追求の芽を摘み取ってしまう。逆に、もしその問いがそのなかで常に問い直されているならば、神や宗教というものが存在することは、それ自体に問題は感じない。

もし神を観察対象であるこの世界そのものととらえ、観察された事象は神の声で、聖書はそれと常に比較、検証されるものであったならば、それは科学とそれほど変わらないのでは、と思う。現実に科学と宗教を両立させている科学者にとっては、聖書は現実や世界と比較検証するようなものとは別の物として存在しているんだろうけれど。
ただそうやって宗教を科学に寄り添わせたとしても、宗教のものの見方は物事に対する価値判断を含んでしまい、またそのために一度受け入れたものは、それを覆すことが難しくなってしまうという問題が残るので、科学の中に宗教的な意味を見いだしてしまう科学者にはちょっと賛同できない。

進化論教育に介入するファンダメンダリストが問題なのは、聖書の記述を絶対化して、それに対する問いや思考をやめてしまっているからだ。もちろんその人たちが問いや思考を放棄するのは勝手だけれども、それを他人に押しつけるのはやめてほしい。

宗教が力を持ち、無神論者が少数派であることには理由があるはずで、集団の生存競争において、ある宗教を信じる集団は、無神論者の集団に比べてきっと強いのだろう。もちろんそのことと、その宗教の教義の、科学的な、検証可能という意味での正しさとは全く関係はないけれども。科学的な正しさや、科学技術の追求なんてくそくらえ、宗教による集団としての強さの維持の方が重要だ、という主張はありだ。ただこれだけ科学技術が生活の隅々まで浸透している中で、科学に背を向けることは、以前と比べものにならないほど大きなリスクをはらんでいると思う。

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